(↑週刊文春P98より)
さすらいの女王とは、そう、あの強烈な中村うさぎさんです。才女なんだと思うけど、豊胸手術したり、自分の価値を確かめるため風俗に勤務してみたり、そういう体当たり的生き方がスゴイ人なんですよね。(好き嫌いは置いといて)週刊文春はよく読んでるんだけど、彼女の連載コラムが「さすらいの女王」なんですね。
いつもど真ん中直球のコラムを書かれてるんですが、先週11月8日号はそーだよねーと同感だったので、ちょっと引用したいと思います。全部書くと長いのではしょって、文章を割愛(中略)しています。
私は思うように生きる。ブランド狂いは言うに及ばず、ホストもデリヘルも世間から激しくバッシングされたけど、そのような愚行をとおして私は女というものについて考え、自分というものについて多くのことを学んだ。いまや私は自分が何者であるかという答えに以前よりずっと近づいている。
私は欲望する主体である。欲望は欠落感から生まれ、永遠に満たされることはない。すなわち、私はあらかじめ欠落した主体である。現実に何かが欠けているわけではない、何かが欠けていると思い続ける意識こそが私という主体なのである。
社会があるから欲望が生まれたのではない。欲望が先にあって、そこから社会という共同幻想が作られたのだ。社会とは人間の欲望をかなえる装置なのである。欲望は永遠に満たされず、我々の欠落は埋まることがない。我々は自分が本当は何が欲しいのかをしることはなく、次から次へと何かを欲しがることで経済を回す。
本当に欲しいものなんて、じつはないのだ。欲望それ自体が人間なのであるから。欠落感を埋める何かが欲しいと激しく渇望する、その意識こそが人間という生き物の本質なのではないか。
人間とは欲望のフリークスなのである。永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体なのである。社会や他者の欲望の対象を追い求めることで一時的に欠落感を満たそうとするが、あくまで応急処置だ。人間の本質は欲望そのものなのであり、この大いなる欠落感が「私」という主体なのである。
永遠の欠落感が何によって生じるかといえば、それは「失われた万能感」ではないかと思うのだ。まるでフロイトじゃないかという気もするが、半生をかけて格闘してきたナルシシズムという強敵は、確かに万能感を限りなく求める化け物であった。
読んでてアレ?と思ったんだけど、欠落感、万能感、という言葉、この内容ってばさ、以前読んだ本を読んで書いた時と同じなのだ。→1億総ガキ社会 まぁ、オレはブランドなどには興味ないけど、クルマやバイク、波乗りなど、ものは違えど彼女と同じこと。要はオレらは永遠に満たされない欲望そのものが、主体(意識)だってことだね。多分合ってる。
だから同時にこんなしち面倒くさい、自分の中の貪欲なものを滅却したいという願望もあるよね。単身での山登りはどっちかっていうと滅却の系統。すごく興味のある四国遍路もそっちの方向だよね。山寺に篭って修行したいというのも同じかな。あ、マラソンもかな。諦めて(開き直って)貪欲に生きるか、滅却にトライしてみるか、個人次第だね。オレは一旦滅却してしまいたいなぁ〜。その後はどうなるかわからなくても・・・。