迷わず行こうよ、行けばわかるさ

何でも経験してみなけりゃわからない。やってみると先がみえるよね。還暦オヤジのダイアリー。

刹那さ、多分これがすべての伏線

オヤジとこないだ鹿児島に自衛艦船を見学に1泊2日で観に行った。旅館に宿泊したんだけど、温泉一緒に入って上がったら、オヤジは寝そべってしまい立ち上がれなくなった。多分、いつもの自宅より断然広い露店風呂で気持ち良くて、長風呂してしまったからだろうと思う。この時、手助けしながら体を起こして部屋まで連れて行ったんだけど、「きっとこういう旅行も最後かも・・・」と思った。胸にどきっとくるあの感じ、そう、切なかった。

 

切なかった=気持ちが切なくなった だよね。でも実際的な表現としては「刹那かった」が正しい表現だと思う。辞書にはのってないけどね。

 

そう、人生は儚いゆえに刹那いのだ。間違いのない真実。仏教(般若心経)でいうところの「空(くう)」。言い換えれば「諸行無常の響きあり、盛者必衰のことわりをあらわす」だし、「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。

 

だから、生きるってことは刹那のできごとの繰り返しで一瞬先は闇だし、一瞬前は二度と戻れないはるか彼方の過去。

 

だから、何にも煩わされることはなく、やらねばならない宿命もなく、感傷的になる必要もない。すべては夢のごとき儚いひとときだから。バタバタしても、焦っても、ゆっくりのんびりするも、どうでも好きなようにすればいい。周りに迷惑や心配をかけないようにしてね。価値観と人生観とかそれぞれにどう思おうと自由。自由という意味=たぶん無意味ということ。いずれにせよ「風の前の塵のごとし」なんだから。

 

切ないって感じるたびにこの言葉の輪廻をぐるぐる繰り返してるね。どうしようもない刹那さをひとときでも忘れたくて、日々を楽しく過ごせるよう色々やってみるんだけど、ふと思い出したようにこのことを思いだすんだよね。

 

ブログをなぜ書いてるかとか、これも結局、刹那さとどう向き合うかってことを書き記してたんだろうと思う。一度高速道路を運転中にドーンとこの「諸行無常」だなという感覚が降りてきてしまって動けなくなった時があって、あれ以来多分何か痕跡を残そうとして、多分、ここ15年くらいすべての元になってるよね。ふとよぎる虚しさ、この意識に何とかうまく対峙・回避できないかと思ってたけどね、空気をつかもうとするようなもので、まったく無理だよね。そう、すべてはあるようで何もないから。

 

海や山で感じたことのある、世界に溶け込んだかのような、あの恍惚的な自然との一体感は、きっと言葉ではなく身体的に理解してる、感じている瞬間なのかもしれない。

 

刹那さ、このことが歌や詩やいろいろなものの、ほぼすべてのものの、根底にあるんだろうと思うよ。絵画や景色をみて美しいと感じるとかね、すべての伏線。儚さ。そしてこれってどうしようもなくて、考えなくっていいのだ。考えることさえ空気のようなものであってないがごとし、一瞬の変わりゆくものでしかないから。たったの100年で人類はすべて入れ替わるしね。

 

それでも楽しく過ごそうとする。人生に何か意味をもたせようとしちゃう。永遠なものはないのか?と思っちゃう。そしてまたふっとガーンとなる。きっとその繰り返しが人生ってものなんでしょう。すべてが消えてなくなることを意識しない動物みたく、すべてを即物的に考えてもよいのかもしれないね。

 

あ、書いてて今思いだしたけど、小学生の頃、学校からの帰り道に、生まれ変わるならコンクリートの電柱になりたいと思った。死なないでずっと生きれるからって。死んだら考えること自体できないっていう恐怖で。家に帰ってそういったら、親にきょとんとされた(笑)変な子供だよ。子供のころから何とか死にたくないと思ってたんだろうね。ひょっとすると小学生から50年くらいこのこと考えてる?のかもしれない。今でも電柱を触ったりしてしまうのもこの名残か。。。

 

さ、ここらで、今日もゆっくり寝よう。

 

それでは、さようなら♬ 

(明日起きれないかもしれないオヤジに、自分に、そして皆さんに!)