迷わず行こうよ、行けばわかるさ

何でも経験してみなけりゃわからない。やってみると先がみえるよね。還暦オヤジのダイアリー。

とても自由で楽しい人だった。


3回めの入院をし小康状態だった母(佐野澄子)ですが、23日に急変し逝去致しました。急変から1時間という短時間での往生でした。(末期の肺癌、気道圧迫による呼吸困難) 泣きながら手を強く握って「もうゆっくりしていいよ」と声掛け続けるしかなかったです。運良くケアしてた家族は集合できました。


昨晩お通夜、本日お葬式。もう妹とオレはずーっと泣きっぱなしになってしまい、出棺の見送りお礼の挨拶をする時は、「本日は・・・」でもう声にならず、もうボロボロな状態で・・・親戚や地元の友人が集まる中、完全に壊れた状態を露呈してしまいました。ここまで頑張ったのに家に戻れず残念だという気持ち、息ができず苦しい状態の往生見送り、目の前から居なくなるという漠然した恐怖、もっといろんなことやれたのに・・・というような気持ちが交錯しちゃって。
 

旅立ってからは、葬儀社に連絡し、医師と看護師さんにお礼を告げ(がん末期の胸水をうまく抜いたり2回も退院して自宅に戻れるよう施術いただき、本当によくして頂きました) 一緒に家に戻り、翌日納棺師さん(おくりびとさん)に洗体してもらう時も心ここにあらず、通夜で一緒に式場で隣に寝ました。翌日、葬儀ののちに火葬場に行きましたが、オレは棺桶があの火葬炉に入るところは怖ろしくて耐えれず目を閉じてました。その後遺骨を骨上げし、、、。


それで、今、家に帰って来て思うに、母親ではあるんだけど、明るく面白く、なかなか居ない自由人だった。子育ては完全に放任主義で「自分の人生やけん、好いとるごとすれば良いたい」のとても魅力的な人だった。仕事は長く中学の音楽・体育の教師をしていたのですが、生徒さんも同じ意見で多くの元生徒さんにもお越しいただきました。(ほぼ同級生くらい)昔、ヤンキーぽかった人達ばっかりです。そういう人達に人気あった様子。陽気で明るく肝が座ってるって感じかな。誰にも好かれるキャラで、デイケアでも入院してた病院の看護師さんとも仲良くなっちゃって。佐野さんお薬りよと言われるとふざけて「はーい」と手を上げたりしてさ。


写真は中学生の頃の写真です。長屋だった住まいの近所の子供達だそう。(子供を抱きかかえてるのが母) お葬式でスライドを上映するのに写真アルバムで写真探してて久しぶりにみつけて。あぁ若いころ(オレの子供の頃)はこんな感じだったと思い出しました。なんかいい感じの時の笑顔だなと思って選んだ一枚。(オレを抱えてるのもあるのだけど、ちょっと恥ずかしいのでご遠慮させていただき。)


前に少し書いたんですが、母は日本が満州進出してた咸鏡北道(現在の北朝鮮) で警察官の子供で生まれ、終戦後に韓国の木浦(モッポ)まで汽車と歩きで行き、引き上げ船で丹後の舞鶴に着き(その間に父親が亡くなる)大牟田の親戚をたよってやってきました。4人兄弟の3番目で生活苦から4人共に養子養女の縁組となり、母は三井銀行大牟田支店勤務だった養祖父に引き取られました。(今日は別の家族の養女となった実の姉にも来ていただきました) ルーツは多分日本人だと思うけど、よくわかりません。なんせ2世代以上前の情報無く詮索もしないから。


ちなみに一緒に住んでた実の妹とも苗字が違って説明もなくなんでだろーと中学まで思ってました。養父母の性を妹が継ぎ養父母の養女となってた。そんで、ただのオジサンだと思ってた人が実の祖父だったりしたのが判ったのも高校生くらいで、ええ〜っと驚いたら、「あれ、話しとらんかったっけ?」だった。R子(妹)は知っとるよ。だって。家族でこの事情を高校生まで知らなかったのはオレだけだったのだ。もうこの辺からいわゆる血筋はまったく誰も気にしておらず誰に世話になったかという家だった。たまに会う人がどういう関係の人かよくわからなかった。けどいちいち聞かなかった。上の写真も実は親戚の子なのかも知れないと思っています。(実か育てか別として)博愛なんですね。


・・・話を戻すと、その後、大牟田から柳川に来て柳川市内の小学校に通い、中学からは祖父の東京転勤にともない東京世田谷の駒沢中(↑写真の頃)。高校は世田谷の東京都立桜町高校で陸上部と美術部。なお、養祖母はピアノ教師だったのでピアノと合唱は自宅養成。新任できた英語の先生が初恋だった模様。(ひよっとするとこの後遺症で英語教員だった親父と結婚したのかも) 大学は東京女子体育短期大学で新体操部。新体操のハシリだったとのこと。(桜町高校は元気な時に一緒に行ったのですが、昔は畑に囲まれてたそうです。) なので、めちゃ筑後弁だけど田舎には居ないハイカラさんだったようです。母は養父母の家にもらわれてほんとに幸せだったと何度も言ってました。(一部エンディングノートより)


その後にまた転勤で柳川に戻ることになり、音楽と体育の教員免許があったので大川市にて中学の教員となりました(大川東中・大川中・大川南中)。福岡の田舎にひとりだけ東京弁で完全に浮いていたらしい。が、数年後には完全な筑後弁で怖い先生だったらしいです。家に遊びに来られてた生徒さん達から何度もそう聞いています。22歳で同じ境遇だった(オヤジも養父母に養子縁組)父親を似たような境遇だからとお見合いし知り合い結婚、2年後の24歳の時にオレが生まれた次第。ピアノ・絵画・ダンスが好きな3本柱だったそうで、それゆえ、オレも小学校までピアノさせられました。


・・・とまぁなんだかファミリーヒストリーな感じなんですが、(あの頃は戦後でそういう境遇の人が多かったんだと思う。今とは大違い)。葬儀を終えオヤジと2人でいるとまだ病院に入院してるような気がするねぇ〜と2人共完全に空虚な状態なです。とりあえず、何か書いておこうかなと思える時間ができたので書いてみました。ちょっとまだ喪失感の大きさが不明でなんとも言いがたい状態ですが、ご香典確認から名義変更などやたらとやることがあるようなので、来週からボチボチ整理を初めたいと思います。


あ、それと介護が大変だねって言われることが多かったのですが、母が身の回りを自分でできなくなってしまったことは悲しいことなんだけど、まったく大変では無くてオレにとっては救いというか癒やしというか。オレがちっちゃい頃は母は教員の多忙な時期で朝晩の食事やおやつやお風呂などは全て祖母がやってたし、子どもながらにもっと母親と接したいと思ってたんですね。(だから幼稚園・小学校は登校拒否だったらしい)それをこの6ヶ月、24時間ほぼほぼ一緒に居れたので時間を取り戻せた感じなんです。


友人知人各位、母の希望もあり地元の身近な方々にしかお知らせしませんでした、どうぞ容赦ください。本日ご会葬頂いた皆さま、本当にありがとうございました。

Special Thanks To:
医療法人清和会 長田病院 井上医師、3階病棟看護スタッフ、がん看護専門看護師の皆さま
柳川市福祉協議会ケアマネージャーさま
介護老人保健施設 シャンティ スタッフの皆さま
訪問看護ステーション 花水木 看護師の皆さま