迷わず行こうよ、行けばわかるさ

何でも経験してみなけりゃわからない。やってみると先がみえるよね。還暦オヤジのダイアリー。

社会的評価と幸福感

おととい書いた「自分が幸福であると感じることが大切だって書いてきたのに、実は社会的評価のイメージで人生を捉えてた」ってことをビジュアル化してみた。肩書や収入を考えおそらくこうであろうと他者(社会的)評価とし、幸福感は自分の感覚で比較。下の数字は年齢です。

こんな感じ↓

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上記のように社会的評価(収入・肩書)と幸福度だけど、比例してる時もあれば反比例してる時もある。

  • 28歳で急激に幸福感がアップしてるところは退職して無職になった瞬間です。最初の退職だったので相当自由になったハイ感がありました。同時に社会的評価はゼロになってます。
  • 28~42歳くらいまで数社転職してますが、憧れた業種・好きな業種で楽しくてハイになってる状態です。
  • 40前後の社会的評価のピークはメジャーな人気企業に勤務してたからです。
  • それ以降、先に充実感が薄れていき退職するのでまた社会的評価はゼロになるものの、帰郷し充実感は継続しています。
  • 52歳のハイなピークは海外登山と波乗り旅による充足感です。
  • 以降の下降線は母の介護で充実はしてるけど悲しかったからです。また、残る父ともどのくらい一緒にいれるかっていう切実さで下降線です。
  • 何しろ赤のラインを相対的高めに過ごせたのはラッキー。生きてることも。

いままで「仕事=人生=楽しいこと・充実感あること」ベースだから、赤のラインがずーっとハイスコアであることが重要だったんですね。社会的評価も赤のラインと思いきや、たぶん青のラインように評価されています。肩書とか社名とか。

 

ここんところ「マジきついな-」っていうのは、赤のラインがボトムへ来てると同時に青のラインもボトムだからでしょう。特に田舎では青ライン=総合評価な傾向だから余計です。あんた何してるの?=100%仕事だし収入のこと。

 

でも思い起こしてみれば、「大事なのは赤のラインだけ」ってことです。青は間接的、環境的に関連しても、直接赤をハイスコアに維持するものじゃないってことです。肩書であるとか収入だ~ってことより、仕事がめっちゃ楽しいとか、仲いい友達と旅行したとか、家族が増えたとかが重要な訳だよね。若い頃はわからなかったけど、50代の方はほぼ理解してると思います。頭のなかで文章化されてるかどうか別にして少なくとも感じてますよね。

 

んー やっぱり見える化するのはとても分かり易い。もう過ぎ去ってしまった過去のことなんだけど、勘違いして思いこむのを防ぐためにもいちど人生幸福度をグラフにするの面白いね。どんな時が一番ハッピーだったか。今思ったけど、コレしくじり先生の人生グラフだね。

 

というわけで、赤のことだけ考えとけばいーんです。(言い換えると、赤のことだけを考えられる環境作りができればいいんです、かな。容易じゃないかもだから)

自由人→フリーター

おこがましいけど、ずーっと自由人だった。楽しくて好きな仕事しかしてこなかった。そうじゃないと人生の意味がないと思ってた。(今でも思ってる)今は適応力が落ちて地方だしフリーターカテゴリーになっちゃったけどねw 

でも周囲から「1つの会社じゃ我慢できないね」みたく言われ続けて「オレは堪え性がないのだ」と自分の欠点なのかも?と理解していた。しかし、ほんとはこういうことだったのだ。ちきりんさんが書いてくれなきゃ、何故今まで沢山転職したのか?を自分で勘違いしたままだったよ。

ほんとに感謝。ありがたし。

 

d.hatena.ne.jp

坂を下る→平坦な道へ、イメージチェンジ

人生も登山と同じく坂を降りるのがけっこう難しい。なんか疲労感一杯で坂を下るのが面倒って感じ。

 

個人的なイメージなんだけど、登山始めてから人生が登山みたく思えてるんですよね。若い頃は頂上も意識せずただ目の前の森を抜け、登山道を登ってゆき、途中で見あげても頂上があるかさえわからない。途中で頂上らしきものが見えてきても全然近づかない。遠いな~と思いつつ少しづつ山道を登っていって。そんである日ここは頂上?っていう視界が開けた場所に出る。気づくと平坦な道なので歩くのが楽になってる。ん、こりゃひょっとして頂上か? そんで、ある時気づくと頂上を越えて山を下ってた。振り返れば頂上が見える。おーそうか、下りだしたかと自覚した。・・・っていうイメージ。

 

登山やってる人ならわかると思うんだけど、もう目の前の一歩一歩を進むしかなくって、ある時はきついだけだったりする。もちろん景色が良かったり、登ること自体が楽しい時も多い。それで結局その一歩が合計されて山の頂上に到着できる。頂上からは今まで1面しか見えなかった尾根の向こう側や360度の景色が見れる。こういう景色だったかーと感動したりする。

 

人生でも(=ほぼ仕事のことだけど)同じように感じてる。丘や谷をいくつか越えて、登ったなという感じになり、歩くのが(仕事が)楽になったら多分そこは頂上、もしくは稜線。視界も開けてこういうところかと認識する。そして山の麓までよく見えてくる。人生が見えてくる。あぁいままで登りだったけど、あの辺りまで降りるんだなと理解する。人によってはそれからまた次の頂きが見えてきてまた登りだしたりするんだと思う。いくつも頂きを登り続ける人だっているけど。

 

下山する時って怪我しやすいんだよね。頂上行ったぞっていう安堵感に疲れが重なって注意力が散漫になって。今まで山で怪我したのは全て下山時。安易にステップしてバランスを崩し足首を捻挫するのだ。ちょうど今、人生を下山してて要注意してなければいけない時なんだけど、山と同じく疲れてて安易にステップしてる気がするんだよね。視力や体力も着実に落ちてるしね。なんだかけっこうな急坂を下るような感じがしてる。(まぁ離職したばっかりってのもあるけど)そう思うとうんざりし始めて、これがずーっと疲れててたりしてる原因じゃないかと思えてきた。

 

友人知人数名が「もう、いつ死んでもいいや」と言ったのを聞いたことはあったけど、信じられなかった。そんなネガティブで勿体ない感覚にどうやってなるのか?と思ってた。・・・現在は自分で言うには至らないけど、理解できる。彼らはおれより先に下りはじめてたんだね。精神的に疲れて、自信無くなり希望が持てなくなるんだよね。

 

このままじゃ危うくって進めない。オレもそう言いだすのだけは避けたい。そんな風に考えてたら、今日新しい事実(らしきもの)を思いついた。人生を山に例えるイメージ自体が間違いだったんじゃないかってこと。山を仕事に例えたこと自体、その立ち位置とか収入とか社会的なモノサシで発想したものであって、ほぼ他者からの評価意識だったんじゃないかと。人からどう思われようと大事なのは自分の幸福感じゃね~って何度も書いてるのに。なんだよ、めちゃめちゃ勘違いじゃねーか(恥)

 

それによーく考えれば、平坦な道(時間)を延々と歩いてきただけだし、このあとも淡々と歩くだけなのだ。楽しかったりシンドかったりしながら。しかも今までの過去はあるようで記憶の中にしか存在してないし、明日くらいしか歩く道も見えてない。よね? それを今から長い期間、注意して下らなきゃ・・・なんてのは自分で自分に負担かけてるだけでナンセンスだよね。明日~せいぜい1週間とかを意識したほうがいいね。もう明日からは、歳をとるとともに少しづつ能力は落ち続けていくけど、その分ペース落として楽しみながら歩くってことにします。田舎だから社会的評価で判断される場面が多くて面倒なんだけど、それもへらへら~ってかわすことにします。

 

なんか発見した気がする~(勘違いかも知れないのはいつものとーり)

 

For You


山下達郎 FOR YOU (Tatsuro Yamashita FOR YOU)

 

久々にYoutube。懐かしいの聞こうかなとおもって検索したら山下達郎さんのオリジナル音源があるじゃん。(彼及び彼の事務所は相当厳しいのでYoutubeにUPされてて驚いた)だから、今のうちしか聞けないよ、すぐ削除されるハズ。

 

聞きだしたら、もう大学1年生の頃の感覚。厚木っていう神奈川の田舎に住んで、裕福な友だちの車で湘南へ向けて246を南下するあの風景。数えてみれば約35年前。信じられないね、本当に。多感だったし毎日が新しいことの連続。そんでずっと一日じゅう頭の中を流れてた音楽のひとつ。

 

音楽って風景と一緒に記憶されてるよね。音だけって無い気がする。たまにそれぞれの”あの頃”の曲を聞くと泣きそうになりつつ夢ごごちだね。